陽子の仲間で初めて見えた『物質と反物質の差』 — CERN LHCbが解析した100兆回の衝突

100兆回の陽子衝突を解析して、ようやく数パーセントの『差』が見えた。物質と反物質を分ける小さな非対称が、陽子の親戚で史上初めて捉えられた。
ラムダbバリオン、物質と反物質で『減衰の仕方』が違った
欧州合同原子核研究機関(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)にある検出器のひとつ、LHCbが2025年春に報告した結果は、素粒子物理学者にとって長年待ち望まれていたものだった。陽子や中性子の親戚にあたる「バリオン」と呼ばれる粒子で、物質と反物質の振る舞いに統計的に有意な違いが見えた、というもの。
具体的には「ラムダb(Λb)」というバリオン。クォーク3つでできた重い粒子で、寿命はおよそ1兆分の1秒程度しかない。この粒子と、その反粒子である「反ラムダb」を大量に作って、それぞれが崩壊していく様子を比べたのが今回の解析だ。
LHCb collaboration の2025年Nature掲載論文によれば、ラムダbと反ラムダbの崩壊に、数パーセント程度の非対称(CP対称性の破れ)が確認された。統計的有意性は5シグマを超え、バリオンでこれが観測されたのは史上初。
100兆回の衝突を、14年かけて集めた
「数パーセントの差」と書くとあっさり見えるが、検出するまでに必要だったデータ量はとんでもない。LHCは陽子と陽子を毎秒数千万回ぶつけており、その膨大な衝突の中からラムダbがごく稀に作られる。そのラムダbがどう崩壊したかを正確に追跡する必要もあった。
研究チームは2011年から2018年までと、2022年以降にLHCで蓄積された全データを解析した。総衝突回数はおよそ100兆。その中から、対象となる崩壊イベントが約8万件。差を統計的に取り出すには、これでギリギリだった。
あなたの身体を作っている陽子と、同じ家族で起きていた
あなたの身体を構成している原子の中身——陽子と中性子——は、すべて「バリオン」というカテゴリの粒子。今回CP対称性の破れが見つかったラムダbも、同じ大家族の仲間。
なぜそれが大事か。物理学者の世界には『サハロフの3条件』と呼ばれる、宇宙に物質だけが残るために必要だとされる条件があり、そのひとつが「CP対称性の破れ」だ。自然界の法則が物質と反物質をほんの少しだけ違うように扱う、という性質を指す。
バリオンは中間子と違って粒子と反粒子の境界が明確で、しかも我々の身体を構成する陽子・中性子と同じ大家族。バリオンでのCP対称性の破れ観測は、物質の起源を語るうえで「中間子で見つかった話」とは別の重みを持つ——というのが、現代素粒子物理の標準的な理解。
CP対称性の破れ自体は1964年に中性K中間子で初めて発見され、その後B中間子(クォーク2つでできた粒子)でも確認されてきた。ただし、中間子は『擬似的に物質と反物質が同居している』ような特殊な構造。日常の物質を構成しているのは中間子ではなく、3つのクォークでできたバリオンだ。そのバリオンでCP対称性の破れが見つかったことの物理学的な重みは、中間子のときとは違う。
それでも、宇宙の謎は半分しか解けていない
注意したい点もある。観測された非対称の大きさは、現在の標準理論(標準模型)の予測とおおむね一致している、と研究チームはコメントしている。「想定外の新物理学が見つかった」というよりは、「予測されていた効果が、ようやく直接観測された」と読める。
標準模型が予測するCP対称性の破れの量は、現在の宇宙に残された物質量を説明するには「100億倍ほど」足りないとされる。今回の発見は重要なピースだが、宇宙の物質非対称性そのものを説明し切るには未知の物理が必要。
言い換えれば、今回の発見は宇宙の物質非対称性パズルの「重要なピース」ではあるが、「答え」ではない。本当に物質が反物質に勝った理由を説明するには、標準模型を超える未知の物理が必要——その方向の探索が、これから本格化していく。
『宇宙に物質しか残らなかった理由』、いつか完全に説明できると思う?
参考・出典
- Observation of charge-parity symmetry breaking in baryon decays (LHCb Collaboration, 2025) — Nature
- Violation of CP-invariance, C-asymmetry, and baryon asymmetry of the universe (A. D. Sakharov, 1967) — JETP Letters
- Evidence of the 2π Decay of the K2 Meson (J. H. Christenson, J. W. Cronin, V. L. Fitch, R. Turlay, 1964) — Physical Review Letters