数学的に正しいピアノは、なぜ濁って聞こえるのか — 弦の「硬さ」が解いた100年の謎

完璧に調律したピアノほど、なぜか濁って聞こえる。世界中の調律師が高音を少し高め、低音を少し低めに「ズラして」合わせているのは、ピアノの弦が普通の弦ではなく硬い棒に近いせいだった。
「正しく」合わせると、気持ち悪い
ピアノのドと、1オクターブ上のドは、周波数がちょうど2倍。教科書にはそう書いてある。ところが、その2倍をきっちり守って全部の鍵盤を合わせると、出来上がったピアノは妙にくすんで、生気のない音になる。とくに一番高い音と一番低い音が濁る。
これは気のせいではない。腕のいい調律師は、高音域へ行くほど音を基準より高めに、低音域へ行くほど低めに、意図的にずらして調律している。「ストレッチ・チューニング」と呼ばれるやり方だ。
このズレを最初に丁寧に測ったのが、物理学者のO.L.レイルズバックで、1938年のこと。彼がグラフにした「ストレッチの曲線」は今もレイルズバック曲線と呼ばれている。問題は、なぜそんな「数学に逆らう調律」が必要なのか、長らくスッキリ説明できなかったことにある。
弦は、糸じゃなくて棒だった
謎の正体は、弦そのものの性格にある。物理の授業で習う「理想の弦」は、限りなく細くてしなやかな糸。そういう糸が振動すると、倍音(同時に鳴る高い成分)は基本の音のきれいな整数倍に並ぶ。2倍、3倍、4倍。
ピアノの弦は違う。太くて硬い。針金を曲げると元に戻ろうとする、あの硬さ(剛性)が振動に余計な復元力を足す。すると倍音は整数倍より少しずつ高い方へ吊り上げられる。2番目の倍音は、基本の音のちょうど2倍ではなく、わずかに鋭い。この「倍音が整数倍からズレる現象」をインハーモニシティ(非調和性)という。
ハーヴェイ・フレッチャーらが1962年にピアノの音を解析し、弦の硬さから倍音がどれだけ鋭くなるかを式で表した。倍音の高さは fn = n・f1・√(1 + B・n²) で近似でき、Bは弦の硬さを表す係数。Bが大きい弦ほど、上の倍音ほど大きく吊り上がる。
調律師は耳で音を合わせるとき、基本の音ではなく、この吊り上がった倍音どうしが「うなり」を起こさないように合わせている。低い弦の鋭くなった倍音と、高い弦の音を一致させていくと、結果として全体が自然に外側へ引き伸ばされる。レイルズバック曲線は、人間が耳で正直に合わせた跡だったわけだ。
数学的に正しいオクターブと、耳に正しいオクターブは、別物。橋渡しをしていたのは弦の硬さという、ごく物理的な事情だった。
あなたのチューナーアプリが、ピアノとケンカする理由
「これって自分に関係ある?」と思った人へ。スマホのチューナーアプリでピアノの高い音を測ると、表示が少し高めに出て「狂ってる」と感じたことはないだろうか。あれはアプリが正しく、ピアノが間違っているのではない。アプリは数学どおりの基準を表示し、ピアノはストレッチされて正しく調律されている。ものさしが2種類あるだけ。
| 鍵盤の位置 | 数学どおりの基準 | 実際のピアノ調律 |
|---|---|---|
| 最高音域 | 基準どおり | 約+30セント(高め) |
| 中音域 | 基準どおり | ほぼ基準どおり |
| 最低音域 | 基準どおり | 約-30セント(低め) |
※ずれ幅は楽器のサイズや弦の太さで変わる。小さいアップライトほど弦が短く硬いぶん、ずれは大きくなりやすい。
同じ理由で、グランドピアノが小型ピアノよりまろやかに聞こえるのも説明がつく。弦が長いほど硬さの影響が薄まり、倍音が整数倍に近づく。長い弦を積めるグランドは、それだけで物理的に有利だった。電子ピアノが本物らしく鳴るかどうかも、この倍音のズレまで再現できているかにかかっている。
「数学的に正しい音」と「耳に心地よい音」、信じるのはどっち?
ただし、これで全部解けたわけじゃない
弦の硬さは謎の中心ではあるけれど、ピアノの「良い音」を決める要因はそれだけではない。フレッチャーらの研究も、響板の共鳴、ハンマーのフェルトの硬さ、3本一組で張られた弦の微妙なズレ(ユニゾン)など、音色を左右する別の要素を並べて挙げている。ストレッチの最適量も、楽器ごと、弾き手の好みごとに少しずつ違う。
つまり「弦が硬いから倍音がズレる」という骨格は固まったが、最後の味付けは依然として調律師の耳と経験の領域に残っている。AIで自動調律する試みは進んでいるものの、名人の手による1台と完全に置き換わったとは言いがたい。
面白いのは、答えが「人間の耳がいい加減だから」ではなく、「人間の耳のほうが弦の物理を正確に聞き取っていた」という向きだったこと。数式が遅れて追いついた、と読める。次にピアノの音を聞くとき、その澄んだ響きの裏に、わざと外された数十セントが隠れていると思うと、少し見え方が変わるかもしれない。
参考・出典
- Scale Temperament as Applied to Piano Tuning (O. L. Railsback, 1938) — Journal of the Acoustical Society of America
- Quality of Piano Tones (Harvey Fletcher, E. Donnell Blackham, Richard Stratton, 1962) — Journal of the Acoustical Society of America, 34, 749
- Physics of the Piano (Nicholas J. Giordano, 2010) — Oxford University Press